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障がい者アスリート 小池岳太が語るコミュニケーションデザイン(1)

大学1年の交通事故で左腕麻痺の障害を負った小池が、
人生を切り拓いたコミュニケーションデザインとは

パラ(障がい者)アルペンスキーの選手として、日本体育大学4年で2006年トリノパラリンピックに初出場した小池岳太。その後も、バンクーバー、ソチ、平昌と、4大会に連続出場しました。
大学1年の交通事故でサッカー選手になる夢を断たれた後、さまざまな人と出会い、絆を紡いで障がい者アスリートとしての道を切り拓いてきました。2014年11月に当社へ入社後は、障がい者として、また、アスリートとしての自身の経験をいかし、講演会やイベントなどでも活躍しています。
「人との出会い、コミュニケーションがなければ、今の自分はない」。
人と人がつながることで広がる世界、スポーツを通して障がいのある、なしに関わらずともに生きていく社会について、小池が語る「コミュニケーションデザイン」。キーパーソンを迎え、5回のシリーズで紹介します。
<聞き手:スポーツジャーナリスト 宮崎恵理氏>


Jリーグのゴールキーパーを目指して

--小池選手は1982年、長野県のお生まれですね。体育教師のお父様、農業と新聞配達を継続されているお母様、そしてお姉さんとお二人の弟さんがいらっしゃる長男です。小さいときは、どんなお子さんだったのですか。

小池
小学校の時には昼休みに給食を5分で食べて校庭や体育館に真っ先に飛び出して遊んでいました。休みの日には自転車で2時間かけて山の渓流に行き、釣りを楽しんだり。活発ではありましたが、ピアノを習ったりもしていました。冬には父に連れられて長野県内のスキー場に行き、どんな斜面も直滑降で滑っていました。スピードが大好きだったんです。

--高校に進学してからサッカーを始められていますね。

小池
ちょうどJリーグが開幕して、誰もがサッカーに夢中になっていました。中学までは母の畑仕事を手伝うため時間が限られていたのですが、高校進学してからやっと好きなサッカーができるようになったんです。

--背が高かったことからゴールキーパーに?

小池
ある日、レギュラーのキーパーが体調を崩したときに顧問の先生から「背が高いからやってみろ」と言われてゴール前に立ったら、思った以上にうまくプレーできたんです。というのも、父がバレーボール部の顧問をしていて、小さい時から体育館でバレーボールに親しんでいたから、ボールをブロックするのが得意だったんですね(笑)。

--それで、日体大を目指された?

小池
はい。将来はJリーガーになるぞ、という夢と、父と同じように体育教師になるという夢の両方を叶えるなら日体大だと、一浪してやっと進学。憧れのサッカー部に入部しました。

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JTBコミュニケーションデザイン所属 障がい者アスリート 小池岳太


野村一路先生の一言で道が開けた

--夢の第一歩だったわけですね。ところが、1年生のときにオートバイに乗車中交通事故に遭ってしまった。

小池
事故の瞬間のことは何も覚えていません。転倒した時に左腕がとんでもない方向に引っ張られて、頸髄の中にある神経が抜けてしまったと、後から聞かされました。救急搬送されてすぐに父に「大丈夫だから」と電話をかけたらしいんです。でも、実際には容体が急変して都内にある頸椎専門の病院に転院して、そこから5日間生死の境をさまよっていたということでした。病院から父に連絡があって、父は夜中に車を飛ばして駆けつけてくれたらしいです。

--大変なけがだったのですね。

小池
命が助かったのは、ただただ運がよかったと思っています。医師から「左腕はもう元には戻らない」という話を聞いたとき、僕自身は意外とその事実をすんなり受け入れられたつもりでした。でも、病院のベッドで寝ながら、右手でサッカーボールを天井に向かって投げて受けて、ということを繰り返している中で、何のために日体大に進学したんだという思いが込み上げて、夢を失ったことに呆然としていました。

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入院中の様子

--結果的には、左腕が動かなくなる障害を負ったことでパラアルペンスキーに出会うわけですが、なぜ、スキーだったのですか。

小池
退院間近の3月。入院中の授業の単位取得について日体大の先生方のところに相談に行ったとき、野村一路先生から「長野県出身でスキー経験があるなら、スキーで冬のパラリンピックを目指さないか」と言われたんです。もう、その一言で、僕は目の前がパーッと開けるような、明るく光が差し込むような感覚になりました。そうか、この世界があった。よし、やってみようって。

--パラリンピックのことは、知っていましたか。

小池
野村先生の授業でも、パラリンピックそのものや、日本チームのチェアスキー選手のトレーニング風景を撮影した映像を見たりしていましたから、けがする前から知ってはいたんです。でも、自分がそこで活躍できるということは思いもしませんでした。僕がサッカーを始めたのは高校から、日体大サッカー部の中では決してエリート選手ではなかったことで、過剰なプライドみたいなものを持っていなかったんだと思います。何より、けがをしてもスポーツができる、スポーツで再び目標が持てることがよかった。それを示唆してくれたのが野村先生だったんです。

--パラアルペンスキーという道を教えてくださった野村先生は、2014年のソチパラリンピックの時に初めて小池選手がコースで滑る姿を現地でご覧になったそうですね。

小池
レース前のインスペクションの時にゴールエリアまで降りてきたら、野村先生が大きく手を振っているのが見えて。夢中で野村先生に駆け寄って握手した時には、もう涙が止まりませんでした。

koike1-6.JPG聞き手:スポーツジャーナリスト 宮崎恵理氏


たくさんの専門家の支援を受けて

--野村先生の一言でパラアルペンスキーを始めることになって、そこからさまざまな人のサポートを受けながら急成長していきましたね。

小池
競技スキーとしては初心者でしたから、まずは用具を買いにスキーショップに行ったんです。そこで出会ったのが富井次郎さんです。富井さんはお兄さんの正一さんと一緒に競技スキーのスクールを主宰されています。シーズンに入ってスクールがある野沢温泉に出かけて、お二人を前に「パラリンピックで優勝したいんです、ご指導をお願いします」って頭を下げたら、そこで初めて会った兄の正一さんに肩をパーンと叩かれて「いいじゃねえか、パラリンピック、一緒にやってやろうぜ」って言ってくださった。野沢温泉で右腕だけでも手伝える仕事をしながら居候させてくれる宿も紹介してくれて、シーズン中はずっと本当に基礎からスキーの指導をしていただきました。

--富井さんたちは小池選手以外にも障がい者のスキーヤーの指導はされたことがあったのでしょうか。

小池
いや、なかったと思います。富井さんたちコーチは左腕を固定させて僕と同じように1本のストックで滑って、それでどう滑るのがいいかを研究して指導してくれました。たくさんの学生選手や社会人の選手たちと同じコースを滑ることで、アルペンスキーの基礎を身につけられました。

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富井スキースクールのコーチたちと

--スキーとは別に、フィジカルトレーニングをパーソナルに指導してくれた鳥居明コーチとの出会いも大きいとか。

小池
初めて国内大会のジャパンパラ競技大会に出場して3位になったのですが、このままでは上達に時間がかかる。夏場にしっかりトレーニングを見てくれる人が必要だと思っていたときに出会いました。当時から夏場のトレーニングとして自転車を取り入れていたのですが、大学近くのバイクショップで鳥居さんをご紹介いただいたんです。ご自身、ラグビーで花園(全国高校大会)にも出場された経験をお持ちで、当時スキー選手の指導もされていました。初めて会ったときに、上半身裸になれと言われてTシャツを脱いだら「なんだ、そのゴボウみたいな体は!」って一喝されました。

--衝撃的な出会いでしたね(笑)。でも、ずっと指導を受けることになったのですね。

小池
そもそも鳥居先生は鍼灸師で、JOCの医科学サポートスタッフで競技団体にも合宿で帯同するほどのコンディショニングやケアのスペシャリストなんです。でも、コンディショニングと同時に専属トレーナーとしてフィジカル強化を見てくださった。さらに、アスリートとしての姿勢やメンタリティをすごくご指導いただいたんです。毎日トレーニングや生活を記録する日誌をつけるようになりました。指導は、ものすごくスパルタだったのですが、何より僕のためを思ってしてくださることがひしひしと伝わってきました。ひざの靭帯を損傷するけがをしたときには、ご自分の車を売って治療のために最新のマシンを導入してくれた。何としてもこの先生には食らいついていこうと思って取り組んできました。

--厳しい鳥居先生に認められたな、と思った瞬間はありましたか。

小池
厳しいご指導の日々でしたけれど(笑)、ある日、「岳太はどんなことも粘れる根性がある。それから人に優しい。現役引退後は、その長所を生かしてリハビリや介護の仕事をしたらいいのではないか」と言ってくれたときに、ああ、自分のことをしっかり見ていてくれていたんだな、と感じました。僕のアスリートとしての根幹は、間違いなく鳥居先生に作ってもらったと思っていますし、今も指針になっています。

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父の背中を見て人との絆を学ぶ

--そして、もう一人、スキー板のチューンナップを手がけられている白井仁さんという方にもお世話になっていたとか。

小池
はい。2016年に初めてトリノパラリンピックに出場して惨敗した後、このままフィジカル面だけを強化するでは絶対にダメで、世界レベルのメカニックが必要だと痛感しました。そこで、地元の諏訪ということもあって白井さんにお願いすることにしました。シーズン終了後はもちろん、大会の直後にもスキーのチューンナップが不可欠なんです。滑降から回転まで5種目あって、1回の大会に持参するスキーは10本。だから年間40本分くらいのチューンナップを担当してくださる。それも、次の大会まで1週間しかないというようなスケジュールの中で、通常は機械で仕上げるお店が多い中、全て手作業で手間ひま掛けて"鏡面仕上げ"をそれこそ徹夜で仕上げてくれました。また、白井さんはスキースクールを主宰していて、時間が合う時にはパーソナルにスキー指導をしていただくこともありました。

koike1-3.jpg小池のスキー板のチューンナップを手がける、白井仁氏

--パラリンピックで結果を出す目標のためには、実にいろいろな方のサポートが必要なんですね。でも、信頼できる人と出会って、しかもずっと継続してサポートしていただくためには、その人とのコミュニケーションをどうとるか、意識的に心がけていかなくてはいい関係を築くことはできないと思うのです。人との付き合い方、つながりを大切にする意識を、どう養ってきたのでしょう。

小池
感謝を忘れず、決して不義理なことをしないこと、でしょうか。ベースになっているのは、父です。でも、自分が障がいを負ってパラアルペンスキーを始めてから、やっとその素晴らしさを理解できるようになりました。体育教師でバレーボール部顧問をしている父を慕って、教え子や卒業生が折に触れ我が家に集まってきます。子どもの頃は母や僕が新聞配達をしながら生活を支えているのに、酔っ払って夜遅く帰ってくる父を恨んだこともありました。でも、毎年お正月には教え子たちが20人くらい集まってくるし、不幸があった時にも真っ先に駆けつけてくれた。そんな風に、人とのつながりを持ち続けている父はすごいです。父の教え子の方々から、「いつか、親父さんを超えろよ」と励まされていますが、今でも父を超えたとは思えない。人を大切にすること、たくさんの人の後押しをしている父の姿は、いまの僕にとって大事な心の基盤になっています。

--人の大切さを、幼い頃から見て学んできたのですね。それが、現在勤務されている会社への就職にもつながっている。パラアルペンスキーのチームメイトや、アスリートとしての就業を支援してくれた方、そして現在、社員同士のコミュニケーションにも、小池選手の人と人をつなぐコミュニケーションが生かされているのですね。そのあたりを、シリーズ2回目以降に詳しく伺いたいと思います。(続く)

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